インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝の法話会は、ロシア、モンゴル、独立国家共同体(CIS:Commonwealth of Independent States)のダライ・ラマ法王事務所代表であるテロ・リンポチェから、法王を歓迎する挨拶の言葉で始まった。リンポチェは、法王がロシア人グループに向けて行われていた2009年からの法話会と、2014年から続いているラトビア共和国の首都リガでの法話会開催について感謝の言葉を述べ、新型コロナウィルスの世界的大流行にも関わらず、今日の技術の発展により、こうしてインターネットを介して集まることができたことの喜びを伝えた。
テロ・リンポチェは、まず初めにサンクトペテルブルグのクンツェ・チョイノイ僧院からロシア語で『般若心経』を唱えると述べた。この団体はダライ・ラマ13世とモンゴルとロシア全域の仏教徒の貢献によって、ツェンシャプ・ガワン・ドルジェの先導で創立された。リンポチェはまた、それに続いてブリヤート共和国のウラン・ウデにあるリンポチェ・バグシャ僧院のメンバーが、今度はブリヤート語で『般若心経』を誦経することを告げた。
これらの誦経が終わると、法王は聴衆に向かって次のようにお話を始められた。
「今日は、ロシア共和国の弟子の皆さんにインターネットを介してお目にかかることができました。私たちチベット人とカルムイク、ブリヤート、トゥヴァ共和国の人々との関係は何世紀にもわたって続いています。1959年に私が仏教博士(ゲシェ)の試験を受けた時には、これらの国々出身のたくさんのゲシェと問答をしました。その中にはケンスル・ガワン・レクデン師やブリヤートのトゥプテン・ニマ僧院長、トゥヴァのゲシェ・ヤンダク師もおられましたが、この方々はロシア語も流暢であったと思います。ですから、私の人生において出会ったこのような最高位の学匠方がモンゴルから輩出されていたということなのです。私たちは一般的に彼らのことを “ソクポ(モンゴル人)” と呼んでいました」
「内モンゴルのグドゥプ・ツォクニ師は私の教師の一人で、空性の見解を私に紹介してくださった方です」
「チベット人とモンゴル民族の人々とのつながりは何世代にも渡って続いています。悲しいことに、モンゴル、そして後に中国で起こった革命の間には、多くの偉大な学匠たちが処刑されました。クンケン・ジャムヤン・シェーバの師であった方もそのお一人でしたが、その方は多くの弟子がいたという罪で求刑されたようです。その方は処刑される前に、祈願の言葉を唱えたいので数分だけ待ってくれるようにと頼み、“ああ、我が師よ、有情の悪しき行いの結果がすべて私に実りますように、そして私の積んだ功徳の結果がすべて有情に実るように加持を与えてください” と祈られたそうです。ロシアとモンゴルで起こったこのような状況は後にチベットでも起こりました」
「これらの国々の政権は仏法を根絶しようとしましたが、私たちに感情がある限り、私たちは幸せを求め、苦しみを避けようとしますので、仏法が力によって根絶されることはありません。人間には知性があり、考える力が具わっています。私たちは幸せを実現し、苦しみを減らすために、心によって考え方を変えることができるのです。仏教も他の宗教も、一般的に心をよりよく変容させる手段のひとつと言えます」
「ナーガールジュナ(龍樹)は、その著作である六論書(『根本中論頌』『六十頌如理論』『廻諍論』『空七十論』『広破論』『宝行王正論』)と同じように、この『菩提心の解説』のテキストのなかでも根拠と論理に依拠されています」
「仏教は、チュギャル・パクパ師の時代にチベットからモンゴルに伝わりました。その後多くのモンゴル人がダライ・ラマ3世の弟子になり、ゲルク派が広範な地域に広まりました。ダライ・ラマ3世はソナム・ギャツォという名で、ダライとはモンゴル語で大海を表し、チベット語のギャツォと同じ意味です」
「私は1979年に、ロシアとモンゴルを訪れることができました。ウランバートルのガンダン僧院の中で、私は老僧たちのグループと一緒に座っていました。彼らは私の長寿祈願の法要を執り行ってくれました。法要中に祈願文を唱える彼らの目には、敬信の涙が滲んでいて、私も涙をこらえることができませんでした。その地でどのようにして仏教が広まり、どのようにして信仰が破壊されたのかに思いを馳せていましたが、それでも彼らの信仰心は損なわれていなかったのです。ロシアと中国の残忍な革命をもってしても、人々の心のなかから信仰を消し去ることはできませんでした」
モンゴル地域とチベットで多くの僧院が破壊されたが、再建が今も進行中である。共産主義者たちは仏教の欠点を言い立てて洗脳しようとしたが、徒労に終わったのだ。しかし法王は、これからも仏教の伝統が生き残っていくためには、仏法を勉強し、修行することが不可欠であると強調された。仏教徒の修行は、須弥壇を整え、そこに祀られた尊像や仏画、経典などに敬意を払うことだけではない。カンギュル(経典)とテンギュル(論書)に敬意を払うべき理由は、それらが釈尊の教えを学ぶためのテキストだからである。
法王は、仏典を学ぶことの大切さに触れられ、以下のように説明された。
「ナーガールジュナの六論書は般若波羅蜜(完成された智慧)の教えで説かれていることを明らかにしています。チャンドラキールティ(月称)の『入中論』もまた同様に、素晴らしいテキストです。私は特に第6章34偈から36偈が好きなのですが、これらの偈はどのような事物であれ、それ自身にも、その中にも、固有の実体などというものは存在しないということを明快に説明しています。私はいつもこれらの偈を繰り返し唱え、その内容について熟考しています」
「私が希求しているものは『入中論』の第6章で述べられている通りに滅諦(苦しみが止滅した境地)に至ることです。空性の理解を深めていくことで解脱は可能になります。たとえ解脱を望まなくても、空性の理解は苦しみに対処するために役立ちます」
ここで法王は、今回のテキストである『菩提心の解説』を取り上げて金剛薩埵への礼拝文を読み上げ、この序文の最初の偈は『秘密集会タントラ』の中に述べられている偈頌からの引用であると述べられた。最初の2行によって非仏教徒たちの主張である五蘊と別個に存在する独立した自我が否定されている。法王は、唯識派は主体としての心が実体を持って存在していると主張しているが、外面世界の事物には実体がないと主張していることに言及された。唯識派は“阿頼耶識(アーラヤ識)”を自我の基盤とみなし、習気の貯蔵場所であるとしている。一方で中観派は、他のものに依存せず、独自の力で存在するいかなる事物も受け入れていない。
法王は如来について説かれているナーガールジュナの『根本中論頌』の以下の偈頌に注目された。
法王はこの偈をご自身に当てはめて、「如来」という言葉を「私」に入れ替えて毎日熟考されていることを明らかにされた。
「どんな事物であれ、実体を持って存在する対象物は存在しないということを理解するには、一切有情を利益するために悟りを開きたいという利他的な意図と結び合わせる必要があります。シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』では、この意図が決定的に重要であると指摘しています」
「科学者たちは、私たち人間は社会的な生活を送ることで生き延びていく類の生きものであり、他者への愛と思いやりは自然に生じてくる、と立証しています」
法王は、釈尊が最初に粗いレベルの人無我について説かれ、後に微細なレベルにおける主体と客体が別個の実体を持つことに関して空であるということを明らかにされたことを指摘された。最も高度な見解を主張している中観帰謬論証派は、いかなる対象物も客観的な実体を持って存在しているのではないと主張している。そして法王は、テキストの序文にある第2偈を読み上げられた。
勝利者仏陀たち、偉大なる菩薩たちが大いなる悟りに向かって〔菩提〕心を起こされたように、私もまた、救われていない有情たちを救済し、自由を得ていない有情たちを解放し、息のできないものたちが息をすることができるようにし、不住涅槃に至っていないものたちを不住涅槃に至らしめるために、今この時より悟りの真髄に至るまで、大いなる悟りに向かって〔菩提〕心を起こすことができますように。
法王は、空性の理解のみで阿羅漢や独覚になることは可能であるが、完全なる仏陀、すなわち無上正等覚に至るためには空性の理解と菩提心を結び合わせる必要があり、この方便によって所知障を滅することができる、と説明された。
その後法王はテキストの26偈までを堅固なリズムで読み進められた。
聴衆から寄せられた質問への回答に移られた法王は、菩提心生起の方法には2種類あり、因と果の7つの教えと、自他を入れ替えて考える教えとの間には一切の矛盾はない、ということを明らかにされた。因と果の7つの教えは、ゆっくりと段階を追って進むアプローチの方法であり、自他を入れ替えて考える教えの方は、より鋭い能力をもつ人々に適しているとされて、どちらの方法をとるにせよ、あなたが利他的になればなるほど、より幸せが増していくだろう、と述べられた。
法王は次の質問について、私たちには “私” や “自分” という感覚があるが、これらは心を基盤として単なる名前を与えたことによって成り立っているに過ぎない、と言及された。法王は『秘密集会タントラ』の中の、“最も微細なレベルの光明の心が自我と名付けられるものの基盤である” という引用を示された。そこにおいては、仏陀の心の光明と私たちの心の光明に違いは何もない。修行を通して自分自身の仏性(如来蔵)を認識したとき、私たちは仏陀となるのである。
無上瑜伽タントラでは、悟りへの迅速な道は、光明の心の本質を悟ることであると述べられている。勝義の菩提心とは空性を直感で悟る心のことである。しかし、ニンマ派のゾクチェンの教えにおける “リクパ(明知)” とは、光明の心の本質それ自体を体験することだと言っているが、それは自分自身の中に顕現させるべきものである。
無上瑜伽タントラでは、主体者である自分自身の光明の心について強調しているが、般若波羅蜜の教えにおいては、空性、すなわち対象物としての光明の心に重きが置かれる。法王は、カギュ派の大印契(マハムドラー)とニンマ派のゾクチェンの教えについて語る時、対象物としての光明の心である空性については疎かにし、主体者である自分自身の光明の心だけに注意を払う人が時々いる、と話された。
次の質問への回答において、法王は、粗いレベルと微細なレベルの無常の区別について述べられた。肉体の死は粗いレベルの無常である。刹那ごとに変化し続けるものは微細なレベルの無常であり、静止しているものは何もない。法王は、常に存在している、接触・受・想・思・作意という五遍行(常に存在し続けている5つの要素のこと)はどの瞬間の心にも伴なわれていて、常に心と一緒に存在していると説明された。
愛する人が病気になったとき、どのように助けることができるのか、という質問に対して法王は、特にこのコロナウィルス感染拡大の時期において、できることがあるのかどうかをよく調べ、もし対策があるのならそれを実行すればよいし、もし無いのなら、落胆していても状況がよくなるわけではないので、心配する必要はないとアドバイスされた。
ヨーロッパにおいて普及している言論の自由の感覚と、一部の人々が持っている明らかな原理主義との折り合いをどのようにつければよいのか、という質問に対して法王は、欧州連合によって体現されている諸国団結のアイデアを称賛された。そして、そのような考え方を国同士の成熟した関係として、世界の他の地域にも広げていくべきであると指摘された。
法王は聴衆に向かって感謝の言葉を述べられ、今日の法話会は終了した。『菩提心の解説』の法話会は明日も引き続き行われる。