インド、ニューデリー
曇りがちの空に太陽が輝く今朝、ダライ・ラマ法王は第1回ユヴラジ・クリシャン氏記念講演会の会場であるシリフォートに向かわれた。法王が会場に到着されるとユヴラジ・クリシャン氏の息女、ジリラジ・クリシャン・ヴァルマ氏が彼女の娘とともに出迎えて、350名以上の招待客が待つ講堂へと案内した。
クリシャン氏の子息、シリカント・クリシャン氏が一族を代表して法王を歓迎し、この日のイベントについて説明した。そして、法王がマクロードガンジにある「ブリグ」と呼ばれる一族の邸宅とその敷地に関心を示されたことから、法王と父ユヴラジ・クリシャン氏の邂逅がかなったことを述べた。
シリカント・クリシャン氏は、2002年に初めて法王にお目にかかり、そのお言葉に強い衝撃を受けたことを回想した。その折、法王は怒りについて、人は怒っている時、普通はその怒りの原因となった相手に怒りを感じるものだが、もう少し注意深く考えてみれば、敗者は怒っている私たちであり、なぜならば、自分の怒りが心の平安を破壊してしまったのだから、と見抜かれたのだった。そして、クリシャン氏の父君が亡くなった時に法王が送ってくださった弔文の中で、「父君は意義深い生涯を送られた」と言っていただき、遺族は深く安堵したことも紹介した。
続いて最高裁判所裁判官のA.K.シクリ氏が演台に立ち、法王の追随者であるフランス人僧侶のマチウ・リカール師の本からひとつの話を引用した。我々のうち、幸せに、そして幸せを実現する方法に十分な価値を与えていない者がどのくらいいるのだろうか?それに答えて、アメリカ人の写真家の友人が、ただ単純に幸せになりたいと願っただけで、未来がぱたぱたと開かれたのを見たと言ったところ、その友人たちはその場違いな返事に後ずさりした。もう一人の友人はチベット本土にいるチベット人に聞いた話をした。チベットでは自分のつらい経験を怒りや復讐心を交えず、平らかな心で述べる、と。
シクリ氏はリカール師の幸福の定義を次のように紹介した。
「幸せであることで、ここにあたかも開花するような深い感覚を覚える。それは途方もなく健康な意識から生じている。これは単なる快感、流れる感情、ムードではない、生存の最高の境地である。幸せはまた世界を受け入れる方法でもある。世界を変えるのが困難な時も、世界をどのように見るかは変えられる」
最近までジャンムー・カシミール州の州知事を務めていたN.N.ヴォーラ氏は第1回ユヴラジ・クリシャン氏記念講演会に法王とともに参加できた幸せと栄光を聴衆に語りかけた。ヴォーラ氏の兄とクリシャン氏はラホール大学の同期生であり、インドが自由を獲得した時、インド行政職(IAS)に就くよう誘われたが、じきにやめて平和的な会計の世界に移ったこと、若い時分、職業選択においてクリシャン氏の蘊蓄あるアドバイスに信頼を置いたことを報告した。
法王がマクロードガンジに居を定められると、ヴォーラ氏は法王に仕えるため法王の元に派遣された。そのころ法王は英語を勉強中で、法王が陽を浴びながら英字新聞を読んでおられる光景をヴォーラ氏ははっきりと記憶している。その後、内務省職員としてルムテク僧院との問題交渉のコンサルタントも務めた。近年ではジャンムー・カシミール州で公職にあった時、法王のラダックご訪問時にお目にかかっている。
法王は講演を開始するにあたり、演台でなく着席したままで話をしたいと希望され、主催者と聴衆に許可を求められてから、話を始められた。
「兄弟姉妹の皆さん、今日ここでお会いできて大変光栄です。私とユヴラジ・クリシャン氏が知り合ったのは、チベットで起きた騒乱が原因で私がインドに亡命した頃にさかのぼります。1956年以降中国共産党はチベットの改革に取りかかりました。この時、チベットに改革が不要であったとは言いません。しかし変革するならそれは現実的で、外部から強制されたものであってはなりません」
「中国人は、地主が小作人を搾取するという自分たちの国で行なった改革を、事情の違うチベットで強制し始めました。チベットは仏陀の教えに従い、小さな虫まで大切にしてきた慈悲深い社会だったのです」
「その後改革の強制が地方における暴動を引き起こしました。最初はカム地方で、続いてアムド地方、そしてチベット全土に暴動が広がりました。私は沈静化に全力を尽くしましたが、最後は亡命する以外、取るべき道はなくなりました」
「1959年3月10日、それこそラサの全人口が街に出てノルブリンカ宮殿を取り囲み、私が逮捕されないように守っていました。私は何とか民衆を解散させようと説得につとめ、中国の担当官吏に書簡を送りました。その間、宮殿のどの部屋にダライ・ラマが滞在しているのか、警備を確実にするため明らかにしてほしいとの中国側からの要望も受け取っていました。はたしてそれが本当の目的なのか、攻撃目標を明確にするためなのかは不明でした。3月10日以降は夜間に部隊が移動し、3月16日には、それまで隠されていた一連の大砲がポタラ宮の正面に公然と出現しました」
「3月17日にラサを脱出した時、まず南チベットに行き、そこにとどまって可能ならば交渉しようと考えていました。しかし、3月19日にラサで爆撃が始まり、その作戦は終わりを告げました。はたしてインド政府が我々に亡命許可を出してくれるのか、受け入れの知らせを受け取るまで不安でした。1959年4月私たちは無事国境を越え、新しい生活が始まりました。私は顔見知りだった役人に再会し、やっと安心することができました。それは私の人生の中で、最も幸せを感じた瞬間の一つでした」
「私がインドのムスリーに移動すると、ネルー首相が訪ねてきてくださいましたので、私から何が起こったのかを直接報告することができました。1960年に住んでいた、マクロードガンジの上にあるスワラグ・アシュラムには拡張の余地がなく、ほかの土地も探したところ、ユヴラジ・クリシャン氏の邸宅と土地を入手することができました。それ以来私は今もそこに住んでいます」
それから法王は、デーヴァナーガリーというインド文字からチベット文字が作られたこと、仏教をより深く学ぶためチベットがインドを頼みとしていたこと、当時の大学者、シャーンタラクシタがナーランダー大学の伝統をチベットに伝えたことなど、インドとチベットの長い歴史的関係を述べられた。法王は、当初チベットはインドをグル(師匠)として遇し、自らをその弟子と心得ていたが、やがてチベットで護持されてきた教えが、本国のインドで顧みられなくなると、その立場は逆転したと説明された。インド中央政府と数々の地方行政府の温かい支援により、チベット人は比較的成功した亡命社会を築くことができた。
続いて行われた質疑応答では、元テレビ司会者のヴィクラム・チャンドラ氏が司会を担当した。法王は現在の物質志向の教育を変革し、現在の生活によい変化が見られるようになるには、新世代が幼稚園から大学まで新しいカリキュラムに沿って教育される期間として20年から30年を要するだろうと明確に述べられた。法王は、それには明確な目標と実行計画、それに温かい心により大きな価値をおくことであるとされた。加えて、量子力学ではモノは見えているようには存在しないことが理解されており、精神的投影に対するさらなる洞察が役立つと述べられた。
「歳を取るにつれ、若い人たちが走り回っているのを見ると、私にはもうそういうことはできないのだと思い知らされます。しかし嘆くだけでは何にもなりません。もちろん、両親など非常に身近な人々が亡くなった時に悲しむのは理解できます。私の場合、子供のころからずっと私の世話をしてくださった家庭教師の先生が亡くなった時、それまで絶えず寄りかかっていた大きな岩がなくなってしまったように感じました。しかし、いつまでも悲しみに浸っていないで、先生が託された願いをかなえようという決意をもって努力したほうが良い、との思いが沸き上がりました」
続いて司会のチャンドラ氏から、法王のお話を聞ける機会をいただいたのは大変光栄なことであったと発言があった。反腐敗学会CEOのS.サティアムルティ氏は閉会の辞の中で、法王が、私たちの幸せは他者の幸せに依存しており、物事の外見に惑わされてはいけないとアドバイスをしてくださったことを述べた。
サティアムルティ氏は自分の上司であったユヴラジ・クリシャン氏の人となりを示す逸話を紹介した。ある時、クリシャン氏は一人の年金受給者が年金を受け取っていないことに気づき、原因を探るとその人物は読み書きができず、役人が署名の代わりに必要書類に拇印を押すよう指示したが、その人物は両方の親指を欠いており、拇印が押せなかったことが判明した。するとクリシャン氏は個人的にその人の年金を認可したのである。
またある時、サティアムルティ氏が、政府高官としての仕事で豪勢なボンベイのタージ・ホテルに滞在するのは居心地が悪いと言うと、クリシャン氏も同意して、豪華なホテルに泊まった後、路上で生活する貧しい人々を見ると、まるで自分が泥棒になったように感じたと告白した。サティアムルティ氏は今回の記念講演会を開催したクリシャン氏の子息と息女に感謝し、亡父の望みを満足させるに違いないと述べた。
ジリラジ・クリシャン・ヴァルマ氏は法王、シクリ裁判官、N.N.ヴォーラ氏、ヴィクラム・チャンドラ氏とサティアムルティ氏の参加に謝辞を述べ、最後に家族の支援に感謝した。
法王が講堂から退場されると、大勢の人々が法王との交流を求めて前方に押し寄せた。法王は人々に言葉をかけられ、握手やスマホの自撮りに応じられながら、ホテルへの帰途につかれた。