インド、デリー
今朝、ダライ・ラマ法王は一般講演の会場であるタルカトラ・スタジアムへ車で移動された。講演に先立って、ヴィディヤローケ発足記念講演の会場に集まった定員数3千人を超える大勢の聴衆に向かって、ヴェール・シン氏が開演の挨拶をした。続いてアナジャリット・シン氏が、「白い蓮華の保持者」(観音菩薩)である法王のご講演を聴衆が心待ちにしていることを深く感じていると述べて、法王をステージへお迎えした。
「兄弟姉妹の皆さん、私は今日、皆さんにお会いできてとても光栄です」と法王はお話を始められた。
「今日、現実的に見ても、人類は一つであることを認識する必要性があります。気候の変化、自然保護、そして世界経済などの問題は私たち地球上のすべての人間に影響を与えるものです。驚異的な困難を引き起こす可能性のあるこれらの問題に、私たちたちは共に立ち向かって行くべきなのです。それにもかかわらず、私たちは未だに「自分たち」そして「彼ら」などの二次的な違いにこだわった古い考え方にとらわれています」
「インドの古くからの伝統として今日も生き続けているのは非暴力の実践であり、その土台となる動機は慈悲の心(思いやり)です。これは全世界に共通する哲学だと思います。人間は社会的な生き物であり、また生物学的な面から見ても、愛と思いやりの心に反応する能力を備え持っています。私たちが人間としての知性を用いることで、世界中に住む70億人のすべての人たちに愛と思いやりの心を広めていくことができるのです。私たちの基本的な人間性は思いやりの心であり、人類存続のために愛は必要不可欠な要素となっています」
質疑応答の時間に入り、ストレスの対処法について聴衆の一人が法王に質問をした。これに対して法王は、まず自分が直面している困難を査定してみて、次に、自分にその困難を乗り越える力があるかどうかを考えてみるようにと、実用的なアドバイスをされた。そして、「もし改善の余地があるならば、嘆くことは何もない。もし改善の余地がないならば、嘆いて何の役に立つというのか」という8世紀のナーランダー僧院の導師であるシャーンティデーヴァのお言葉を引用された。
そして法王は、この世界において、より人口の多い民主主義国家であるインドが、比較的平和を保ち続けていることに感服していると語られた。民主主義によって法の支配と表現の自由が浸透していることに加えて、インド固有の伝統である非暴力、そして異なる宗教間の調和が保たれているということもまた、平和を維持するための役割を担っていることを法王は指摘された。古代文明の起こったエジプト、中国、インダス川流域の中で最も多くの思想家や哲学者を輩出したのは、釈尊を含むインダス文明である。
続いて法王は、貧困層の子供たちに食物を提供するという非常に大切なプログラムを編成しているバンガロール在住のあるスワミ(ヒンドゥー教の指導者、師に対する尊称)との面談の内容について報告された。ヒンドゥー教と仏教には、戒律、禅定、智慧という三学の実践など共通点があるという点でスワミと法王の意見は一致している。一方で、この二つの伝統の相違点は、ヒンドゥー教では永遠なる自我の存在を主張し、仏教では無我の見解を主張しているという点にある。しかしそれは、信仰に基づく個人の問題に過ぎないと、法王は笑いながら述べられた。
次に法王は、宗教には三つの要素があると述べられた。第一は宗教に基づく修行として、愛と慈悲の心を高め、寛容、自己抑制と知足を実践することである。第二は宗教の持つ哲学的な見解であり、創造主としての神の存在や因果の法など様々な哲学的見解が存在しているが、これらの見解は、第一の宗教的な実践を支える役割を果たしている。しかし、すべての人間を平等とみなす民主主義社会において、居場所を失ってしまったカースト制度などの時代遅れな慣習が現代においても未だに存在している。このような古い慣習は変えていく必要があり、精神的指導者たちは率先して改善に対する出来る限りの発言をする責任があると、法王は強調された。
続いて、法王の幅広い人生経験を通して、その中でもおかしかった出来事は何であったかという質問が挙がった。これに対して法王は、常に微笑みを浮かべることを好み、他者もまた微笑みで返してくれると本当に嬉しい気持ちになると答えられた。常に深刻な表情をする傾向にある日本の人たちには、もっと笑顔を見せるようにといつも伝えていることを語られた。笑顔には、自然な微笑み、作り笑い、苦笑い、愛想笑いなど様々な種類がある。法王は、かつてドイツを訪問された時、法王の微笑みでさえ効果を発揮できなかったというご経験について語られた。ある日の夕方、車に乗ろうとした際に、歩道ですれ違った若い女性に向かって微笑んだところ、その女性は微笑みを返すどころか、顔をしかめて奇妙な服装の法王を見返した。この時ばかりは仕方がなかったので、法王も視線をそらされたそうである。
もし、ナーランダー僧院の伝統を守って行くために積極的に活動してくれる人たちが現われたなら、法王ご自身はこの世の終わりを迎える日までゆっくりとリラックスして過ごせるだろうと、つい最近南インドのチベット僧院の僧侶たちに話されたことを伝えられた。また、将来を担う若者たちがより良い世界を築くために真剣に努力してくれるようになれば、法王は安心できるとも述べられた。
そして最後に、法王は関係者に対してこれまでの努力と成果に謝意を表され、近い将来また会える日を楽しみにしていると述べられた。