インド、デリー
今朝、ダライ・ラマ法王はアナルジット・シン一家の邸宅に到着され、シン夫妻と子息のヴェール・シン氏、ナジーブ・ジュン夫妻の出迎えを受けられた。
ヴィディヤローケ(“ヴィディヤローケ”とは智慧の光を意味する、古代インドの伝統を現代に蘇らせようという先駆者たちの会)発足を記念して行われた法話会2日目、まず般若波羅蜜(智慧の完成)の教えが短く要約されている『般若心経』が唱えられ、法王は会場に集まった人々に次のように述べられた。
「みなさん、おはようございます。私は今日、ナーランダー大学の偉大な導師たちによる諸説を学問的に検討するような堅苦しい話をしようと思っているわけではありません。私たちは人間として、常に自分自身をより高めていく可能性を持っていますが、釈尊ご自身も、単なる祈願によってではなく、真理を求める道に入り、修行することによって悟りを得られたことを思い起こすべきだと思います」
「20世紀初頭に現れたチベット人の導師ニェンゴン・スンラブは、仏教の教えは、すべての弟子たちに説かれる一般的な教えと、特定の弟子たちのために説かれる個別の教えに分けられると述べておられます。この観点から言うと、ナーランダー大学の導師たちが書かれた論書は、仏教の一般的な教えであって顕教(スートラ)に含まれ、一方で、密教(タントラ)の教えは特定の弟子たちにのみ伝授される秘密の教えです」
「しかしチベットでは、タントラのような特別な教えの系譜や儀式を重視しすぎる傾向があり、仏教の一般的な教えを学び、維持することには十分な配慮がされていませんでした。また、ドムトンパは仏教の教えを、広大なる方便の教え(広大行)の系譜、深遠なる智慧の教え(甚深行)の系譜、そして修行の系譜として三つに分類されましたが、このように言うと、最初の二つの教えは修行しなくてよいかのように誤解されかねません。ツァ(脈管)、ルン(風)、ティクレ(心滴)の修行や夢のヨーガは、仏教のタントラだけでなくヒンドゥー教でも実践されていますが、クヌ・ラマ・リンポチェによると、この二者の違いは、仏教のタントラでは空の理解を基盤としていることにあります。実際に、空の理解なしに仏教のタントラを修行することは無意味なことなのです」
そして法王は、釈尊が説かれた三転法輪の教えについて、次のように簡略に説明された。初転法輪で説かれた「四聖諦」(四つの聖なる真理)の教えはサールナートで、第二法輪の般若波羅蜜(智慧の完成)の教えはラジギールで、第三法輪で説かれた仏性、つまり本来的な光明の心についての教えはヴァイシャーリで説かれている。
休憩時間に入り、お茶を楽しまれた後で法王は、「ナーガールジュナのテキストの大切な要点についてはすでに仏教概論のところで説明しましたので、これ以上は読みません」と伝えられた。それからナーガールジュナの著作である『勧誡王頌』(友人への手紙)と『宝行王正論』を比較して説かれ、『宝行王正論』の第1章では倫理的行為をするべきことを説いて来世において良き転生を確実に得ること、第5章では利他心の育て方について、第2章では空性を明らかに説かれ、第3章と第4章では王としての正しい行いについて説いていることを述べられた。
次に、参加者からの質問に答えて、楽観的にものごとを見る感覚を失わないことが必要であることに触れられ、また、芸術が善行の励みとなる役割を持つことを話された。そして、「将来のダライ・ラマは女性になるかもしれません」とも言われた。
ナジーブ・ジュン氏は、宗教の考え方が祖師の在世当時の世相に縛られているため、例えば今日の同性愛や男女平等の問題、自然環境の保護についても明確な答えを出せないのではないかと質問した。それに対して法王は次のように答えられた。「伝統宗教には宗教的実践、哲学的見解、文化的伝統の三つの側面があります。宗教的実践の基本となるのは愛と慈悲の大切さであり、創造主が存在するか否かなどの異なった哲学的見解がありますが、いずれの見解も慈悲の実践の支えとなるものです。しかし、古い時代の文化的慣習は、今の時代の習慣や必要に応じて変更されるべきです」
明日、法王はタルカトラ・スタジアムで「現代インドにおける古代インドの智慧の復興」と題してヴィディアローク主催の一般講演を行われる。