インド、デリー
今日、ダライ・ラマ法王は、ロシア人有志らのリクエストに応えて三日間にわたる法話会を始める前に、ロシア語オンライン新聞『Lenta.Ru』のインタビューに応じられた。
最初の質問は、西洋世界では変化が起きており、その結果として何が予想されるかについてであった。法王は次のように答えられた。「西洋世界は世界全体の一部であり、ロシアも同じです。人は人としてとどまり続けるのであり、他の誰かが死にかけているとき、飢えているとき、あるいは殺されそうなとき、何かを感じるのはすべての人に共通する体験です」
今後、より平和な時代になることを期待できるかどうかと尋ねられて、法王は次のように答えられた。「他に選択肢はありません。もし戦争がエスカレートして核戦争になったなら、誰もが苦しむことになるでしょう。思慮深い人ならば、どうしてそのようなことを望むでしょうか」
続いて、暴力がはびこる世界においてどのように非暴力を堅持していくべきかと質問されると、法王は次のように答えられた。
「常識を用いて、より広い視野でものごとを見るようにしてください。暴力は、怒りや憎しみと結びついています。怒りのせいでものごとを正しく見られなくなり、非現実的な行動を取ることになってしまいます。問題というものは、常に理解と対話を通して対処することで、よりうまく解決できるものです。怒りを美化すべきではなく、怒っている人々を好き放題にさせておくことは愚かなことです」
法王が法話会の会場に近づかれると、1,250人を超える群衆は期待と興奮に満ちあふれた。外の廊下では、代表者たちがカタ(白いスカーフ)を手に法王をお迎えする中、『ミクツェマ(ツォンカパ大師の祈願偈)』が唱えられていた。ほとんどはカルムイク、ブリヤート、トゥバ、モンゴルから訪れた人々であり、独立国家共同体(CIS)やロシア、ウクライナ、カザフスタンから来た人々もいた。
法王は、次のように法話を始められた。「今日、私たちはロシア人のみなさんからリクエストされた法話会のためにここに集まりました。私が子どもだった頃、チベットの諸僧院にはカルムイクやブリヤート、トゥバ出身の高名な学僧たちがいました。現在、南インドに再建された諸僧院では、これらの国々やモンゴル出身の約500人の学僧が学んでいます」
「私たちはナーランダー僧院の伝統に従っていますが、ナーランダー僧院の伝統では、空を理解する洞察力を得ることによって、私たちの煩悩とその 習気 (潜在的に残存する習慣性の力)を浄化し、現在の汚れた心を、“光り輝き、対象を知ることができる”という本質的な心に変容させることができる、と説かれています。そのためには、基・道・果(土台・修行道・結果)という三つの段階に分けられる仏教の修行道を実践することが必要とされます」
ここで法王は、仏教詩人のマートリチェータによる次の偈を引用された。
「言い換えれば、仏陀たちは、仏教の修行道には基・道・果という三つの段階があることを説き示されています。自分の知性を使って、教えの内容を分析してみてください。そして、慈悲と知性によって確信を育み、自分自身が日々理解したことを実践してください」
さらに、法王は次のように述べられた。「仏教徒は皆、母なるすべての生きとし生けるものの幸せのために祈りますが、そのような祈りを意味あるものにするためには、実際に行動に移すことが必要です。そして、この地球上で一緒に生きている人々のためにこそ、行動すべきです」
法王は『入菩薩行論』の経本を手に取られると、次のように述べられた。「私は、非常にすぐれた学僧であり修行者であったクヌ・ラマ・テンジン・ギャルツェン・リンポチェから、この『入菩薩行論』の解説の伝授を授かりました。クヌ・ラマ・リンポチェは私に、できるかぎり『入菩薩行論』を説くようにとおっしゃいましたので、私はそれを実行するように努めてきました。“このテキストはシャーンティデーヴァが8世紀に著されましたが、それ以来、菩提心を生起するためのこれに勝るテキストはありません”とクヌ・ラマ・リンポチェは述べておられます」
そして法王は、「第6章と第8章が最も重要な章であり、菩提心を起こすことについて説かれています。一方、第9章では智慧について説かれています」と述べられた。
参加者からの多くの質問に答えられた後、法王は「『入菩薩行論』の第9章の冒頭から偈を読んでいきましょう」と言われた。
現象の現れにとらわれる普通の人たちと対照的に、ヨーガ行者(修行者)は、究極のもののありようをあるがままに見る人たちである、と法王は説明され、ナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論頌』第24章のおことばを引用された。
法王は、「ヨーガ行者も普通の人もお腹がすきますし、昼食を食べなくてはいけませんね」と冗談を言われ、今日の午後は、午前中に聴聞した内容を復習するようにとアドバイスされて、初日の法話会を終えられた。