ムンバイ、ナリマン・ポイントのYBチャバン公会堂に到着された法王は、インド商工会議所の所長プラボドゥ・タッカー氏による出迎えを受けられた。壇上へ案内された法王は、式典の開会に際して、他の登壇者と共にランプに火を灯された。600人を超える満員の観衆に法王を紹介したのは、インド商工会議所婦人会の前会長、リーナ・ヴァイディア氏である。
「兄弟姉妹のみなさん―」、法王はいつものように口を開かれた。「こうしてみなさんと共に過ごせることをとても嬉しく思っています。みなさんが2年も前から私を招待したがっていたのは知っていますよ」
「私はどんな人に会う場合も、相手をただひとりの人間として見ます。私達の多くは問題に直面していますが、その殆どは我々自身がつくり出したものです。問題が生じるのは、人類というひとつの家族の一員として我々を結びつけるものではなく、相手とのさほど重要でない違いに過度に気を取られているためです。全人類を思いやることができれば、諍いは消えるはずです。例えば、気候変動は人類すべてに影響を及ぼしていますし、世界経済も同様に国境や信仰という垣根を越えて機能しています。
世界の人口は増え続け、多くの人が貧困の中に取り残されています。富める者と貧しき者との間に隔たりがあるこの状況は道徳的に誤りであると同時に、現実的な問題を引き起こしています。こうした問題に対処するには、互いに同じ人類の一員として認め合わなくてはなりません。必要なのは相互信頼であり、この信頼は、私達はすべて同じ人間であるという考え方の上に築かれるものです」。
そして法王はかつてインドの政府高官のご夫妻と会談したときのことを話された。「ご夫婦と握手を交わした後、私は子守の女性に手を差し出しました。しかし、彼女はためらって尻込みしました。その場に居合わせた人々の中で、劣っているように感じていたためです」。また法王は、南アフリカのソウェト地区でアフリカ人の家族と会ったときのことを語られた。民主的な新憲法のもとで、より広範な自由と平等を得る希望について法王が問うと、そのアフリカ人男性はうなだれてこう答えたという。「私達は白人ほど頭が良くないので、彼らと張り合うのは無理です」。法王は驚いて「白人も黒人も頭の良さは変わりません。科学者に訊けば、白人と黒人の頭脳に違いはないと答えるはずです」、と抗議された。やがて、アフリカ人男性はため息をついてその通りだと認めたが、そのとき法王は大きな仕事を成し遂げたように感じられたという。
法王は話をインドに戻されると、「太古のインダス文明は実に多くの思想家や哲学者を育みました。その後、ヒンドゥ教やジャイナ教、仏教の教えが生まれ、ナーランダ大学の優れた師たちが誕生しました。現在、多くの科学者がここから発展した智慧を熱心に学んでいます。つまり、インダス文明から始まったものは現代の私達の知恵に影響を与え続けているのです」と語られ、14-15世紀のチベット人導師が書いた詩を読み上げられた。
 |
インド商工会議所108周年創立記念式典にて、講演を行うダライ・ラマ法王。2014年9月18日、インド、ムンバイ(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁) |
「『雪の地チベットの自然の色は白だ。インドから智慧の光(light)が届くまで、チベットは無明(dark)の中にあった。光が差し込んで初めて、チベットは智慧の輝きを知ったのだ』。チベット人にとって、インド人は導師であり、チベット人はその弟子です。しかし―」法王は笑って仰った。「この弟子は実に頼りになります。というのは、インドではすっかり色あせてしまったナーランダ発祥の多くの智慧は、チベットでそのまま保存されていたためです。そして今、そうした智慧は生まれた土地に戻ってきました」
「現代のインド人の皆さんは、物質世界の現代の知識とナーランダの教えに示された古来の智慧を結びつける力を持っています。今日、我々が抱えている問題の多くは、内なる価値観(Inner value)の欠如から発するものです。誰もが平和を望んでいますが、平和はいったいどこにあるのでしょう? 穏やかな心を持つ人には、平和と非暴力が訪れます。この内なる平和がなければ、非暴力は実現しません。つまり平和とは、私達が感情を制御できるか否かにかかっているのです。破壊的な感情に対処するには、感情がどのように動いているのかを知る必要があります。そうすれば、怒りや恐れを鎮められるようになるのです」
「インドでは、毎朝、ガネーシャやサラスヴァティ、シバ神などに祈ることがお好きな方が多いようですね」と法王は会場の皆さんをからかわれた。「しかし、そうして祈っても、心の平和は得られません。心の平和を得る正しい方法は、自らの破壊的な感情に打ち勝ち、前向きな感情を育むことです。この智慧はインドの宝である古来の精神的教えの中にあるものです」
「幸せな人生を送るのに必要なものはお金だけではありません。より大切なのは、内なる平和を見つけることです。そのためには、宗教を超えた倫理を身につけ、古来の教えに内なる価値を見ることです。そこで我々は、信仰の違いを超えた倫理を習得できるカリキュラムを教育システムに組み込もうと取り組んでいます」。
その後、法王は会場から質問を受けられた。最初の質問はナーランダの智慧がチベットで守られることになった経緯についてであり、法王は次のように回答された。
「300を超えるインドの言語の―そのほとんどはサンスクリット語ですが―経典がチベット語に翻訳されました。中国語の経典も約10冊が翻訳されました。経典の内容はその表題から、科学、哲学、宗教の三つに大別できます。科学は他の学科と同じように習得することができます。哲学については、四聖諦の解説は仏教徒の教えですが、二諦の解説は学術的アプローチをすれば誰でも学ぶことができるものです。仏教経典にみられる科学教本はこうした原本をもとにつくられたものであり、現在、英語版が作成されているところです。英語版から他の言語に翻訳することもできるようになります」。

|
インド商工会議所108周年創立記念式典にて、観衆の質問に答えられるダライ・ラマ法王。2014年9月18日、インド、ムンバイ(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
|
「現代の世界人口70億人のうち――」と法王は仰った。「10億人は無信仰だと言っています。内なる平和の考え方をこうした人々と共有し、共に実現するする方法があるはずです。これは教育によって成し得るものだと私は考えています」
次に、精神の修養と物質世界の生活とのバランスを取る方法について訊かれた法王は、次のように話された。「物質的なものは身体的な喜びを与えるだけです。もちろん、これも必要です。感覚的な快楽はたしかに一瞬の満足を与えてくれますが、感覚的なものではなく、精神的な経験から来る満足はもっと長く続くものです。多くの人が幸せはお金と権力次第だと考えているようです。顔立ちが美しくないと幸せになれないと信じている女性もいるようです」。法王はあるチベット政府高官の話をされた。1960年代には僧侶だったが、還俗して結婚した男性である。法王は愉快げに仰った。「彼の奥方はそれほど美しいわけではありませんでしたが、彼は言いました。『外見的にはそれほどでもないかもしれませんが、内面の美しさでいえば、彼女ほど美しい人は他にいません』。本当に重要なのは、この内面の美しさ、思いやりなのです」
「残念なことに、最近は宗教に携わる人々の中にも堕落した者がいます」と法王は仰った。「信仰はありますが、倫理観に欠けているのです。こうした人々は毎朝祈りを捧げ、花や香を供えています。しかしまるで、『どうか、私の堕落した行いを成功させてください』と祈っているようなものです」。会場に笑いが起こり、法王は米国で会った信仰に厚いふりをしたキューバの難民の話をされた。その難民は、神が出来るだけ早くフィデル・カストロを天に召すよう毎日祈っている、と熱っぽく語ったという。
続いて、イスラム国の指導者のひとりに会ったらどんな話をするかとの質問に答え、法王は仰った。「感情を制御できない人に対処するのは大変に難しい。911事件の後、私は友人のブッシュ大統領に手紙を書きました。哀悼の意を伝えると共に、事件の結果としてどのような措置がなされようとも、それが暴力的なものでないことを願うと書きました。暴力に訴えれば、ひとりのビン・ラディンから、10人、100人のビン・ラディンが生まれる恐れがあると私は警告しました。そして、それは現実になってしまったようです。かつて、イスラム教徒の友人がこう云いました。『あの惨事を引き起こしたイスラム教徒は、もはや真のイスラム教徒ではありません。あの聖戦は、他者との紛争ではなく、我々自身の破壊的な感情との闘いでした』」。
さらに法王は、中国最高指導者の習近平氏とその妻が現在インドを訪問していることについて意見を乞われた。「まず、これは政治的な質問ですが、私は2011年に政治的な職務から完全に引退しました。しかし、中国とインドの関係でもっとも重要なことは、相互信頼を礎(いしずえ)とすることです。インドでは、さまざまな言語や文字、文化的伝統が栄えていますが、だからといって、その違いが分離主義や国の分裂といった脅威につながってはいません。習近平氏には、インド滞在中にこのことをよく観察していただきたい。中国の指導者たちが推奨する社会的な調和を実現するには、信頼を礎にするしかありません。力を行使したところで、調和は実現できません。それにも拘わらず、中国は世界で唯一、国内治安費が防衛費を上回っているのです」。
また法王は、習近平氏による汚職撲滅の取り組みへの支持と称賛を表明された。仏教が中国の文化復興に重要な役割を担っているという、パリで発表した習氏の言葉に関心を示され、「中国の機構内の強硬論者は常識の欠片もない軍事によるアプローチを続けていますが、習近平氏はもっと実用的で現実的な方のようです」と述べられた。
「総じて、私は楽観しています」と法王は語られた。「私は、周恩来氏の秘書だった、習氏のお父様、習仲勲氏のことを存じているので」
最後の質問はヒンドゥ教と仏教の違いについてだった。「シーラ―倫理、三昧―、止行瞑想(集中)、観行瞑想(洞察)についてはほぼ同じですし、両者とも、カルマと転生の存在を認めています。両者の違いは自我と無我の主張にあります。私は仏教徒なので無我観を支持していますが、自我を信じるか無我を信じるかは個人的な問題ではないでしょうか」。法王はそう語られた。
閉会に際し、インド商工会議所婦人会の会長ミセス・アルティ・サンギは、ご臨席いただいたこと、および、思慮に富んだ素晴らしい話を聞かせてくださったことについて、法王に感謝を述べた。会場からは温かな拍手が起こり、少しでも法王の近くに行きたいと多くの人が押し寄せる中、法王は会場を後にされた。