慈悲の心

人生の目的とは?

私たちが意識的、無意識的に考えていようといまいと、ひとつの大きな疑問が毎日の生活の中に潜んでいます。それは、人生の目的とは何か、ということです。私はこの疑問について、いろいろと考えてきました。そこで、私の考えに触れた人々が、そこに何か直接的、実際的に有益なものを引き出して下さればという願いから、自分の考えをここで述べてみたいと思います。
 
人生の目的とは幸せになることだ、と私は信じています。この世に誕生したその瞬間から、全ての人は幸せを望み、苦痛をなくしたいと望んでいます。社会的条件、教育、イデオロギーといったものも、私たちのその願いを奪うことはできません。私たちの存在そのものが、その願いが叶うことを願っているのです。無数の星雲、星座、惑星を含むこの宇宙に深い意味があるのかどうか、私にはわかりません。しかし、少なくともこの地上に住む私たち人間が、みな幸せになろうと努力しているのは確かです。ですから、何が真の幸せなのかを知ることはとても大事なことだと思います。


いかに幸せに到達するか?

まず、あらゆる種類の幸せと苦しみを、精神(心)と肉体という2つのカテゴリーに分けて考えることができます。このふたつの中で、私たちにより大きな影響を与えるのは心です。重病に陥ったり、基本的な必需品を欠いたりしていない限り、肉体的な状況は生活の中で二次的な役割を果たしているに過ぎません。けれども心の方は、たとえそれがどんなにつまらぬことであっても、ひとつひとつの出来事を心にとどめていきます。ですから、私たちは心の平安を生み出すために最大限の努力をする必要があるのです。
 
私は、自分の限られた経験の中で、最も深い内面的な静謐は、愛と思いやりを深めることによってもたらされるということを学びました。
 
他者の幸せを大切にすればするほど、私たち自身の幸せへの意識が深まっていきます。他者に対するあたたかい心と親近感が深まれば、自然に自分の心も安らいでくるのです。どんなに恐れや不安を抱いていても、この気持ちがそれらを取り除く手助けとなり、障害に直面したとしても、それに打ち勝つ力を与えてくれます。これが人生における究極的な成功の源です。
 
この世に生きている限り、私たちは数々の問題に出会わなければなりません。そのような時に希望を失い、意気消沈してしまっては、困難に立ち向かう力も減退してしまいます。しかし、苦痛を味わっているのは私たちだけではなく、全ての人間がそうなのだということを思い起こせば、より現実的な視野を持つことによって、問題を克服しようとする決意や能力も一段と高められていくことでしょう。まさにこの態度によってこそ、どんな新たな障害が起きてきても、自分の心をさらに向上させるための貴重な機会として、困難を受けとめることができるのです。
 
こうして私たちは、少しずつ思いやりを深めていくように努力することができます。つまり、他者の苦しみに対する真の哀れみと、その苦しみを取り除いてあげたいという意志の両方を培っていけるのです。そのようにして、私たち自身の心の静けさと内なる力が増していきます。


愛の必要性

なぜ愛と思いやりが幸せを生み出すのか、一言でいってしまえば、私たちの愛そのものが、他の何よりも幸せを求めているからにほかなりません。愛が、なくてはならないものだということは、人間存在の根源に関わっていることだからです。それは、私たち全てが共有している深い相互依存の関係から生まれてきます。個人としていかに有能で熟練していようと、たったひとりでは男も女も生き残れません。人生の順風満帆の時期に、いかに人が元気旺盛で独立を謳歌していようと、病気になったり、乳飲み子であったり、年をとってしまった時には、誰かの助けがなくては生きていくことはできません。
 
相互依存性は、自然の根本原則です。生命の高次元の形態においてだけではなく、宗教、法律、教育といったものを持たない小さな虫たちでも、自分たちの相互関連性を本能的に知っており、それに基づいて互いに協力しあって生きています。どんなに微細な物理現象でも、相互依存性に支配されているのです。私たちの住む惑星から、私たちを取り巻く海洋、雲、森林、花々に至るあらゆる現象界は、エネルギーの微妙な変化によって生起しています。この正常な相互作用がなくなると、すべてのものは解体し、衰滅してしまうのです。
 
愛の必要性が、人間存在の根源に関わっているということは、人間の存在がそれほどまでに他者の助けに依存しているからです。ですから私たちは、他者の幸せに対する誠実な責任感と真摯な関心を持たなければなりません。
 
私たちは、人間とは本当は何なのかということを考える必要があります。私たちは、機械によって作られたものではありません。もし単なる機械のような存在なら、機械そのものが私たちのの苦しみを軽減し、必要を満たしてくれることでしょう。しかし、私たちは単なる機械や物質ではないのですから、幸せになるために、外面的な発展のみに希望を託すのは間違いなのです。そのかわり、自分たちの原点や本性を熟考し、私たちが真に何を必要としているのかを知らなければなりません。
 
宇宙の構造や発展などという難しい質問はさておき、私たちは両親から生まれたという点では、少なくとも一致しています。妊娠は性欲による結びつきというより、子供が欲しいという両親の意志がもたらすと考えるのが普通です。この両親の決心は、生まれた子供が独り立ちできるまで愛情を注いで育てようという責任感と愛に基づいています。ですから、受胎のその瞬間から、両親の愛が私たちの誕生に直接介在しています。
 
さらに、乳飲み子の段階から、私たちは完全に母親の手に委ねられています。科学者たちによれば、妊婦の精神状態は、安定していても不安定であっても、いずれも胎児に直接身体的な影響を与えていると言われています。
 
愛情を表現することは、誕生したその瞬間から私たちにとって非常に大切な要素です。私たちが生まれて、まず最初にすることといえば、母親の乳房を吸うことですから、私たちは母親を最も身近な存在に感じています。そして、母親もまた、立派に育ててあげたいという愛情を感じるに違いありません。もしそのとき、腹を立てたり、恨みを抱いていたりしたら、母乳も十分に出なくなってしまうでしょう。
 
生後3、4歳までの段階は、脳の発達に非常に大切な時期であり、この時期における身体的な接触こそ、幼児の正常な成長に欠くことができない最も大事な要素なのです。もし抱きしめられたり、愛されることがなければ、その子の成長は損なわれ、脳も正しく発達することはできません。
 
幼児は、誰かに世話をしてもらわなければ生きていけないのですから、愛情こそ最も大事な栄養源だといえるでしょう。幼児期の幸せ、恐怖の克服、健康、自信の芽生えといったものは全て、この愛情に直接支えられています。
 
今日では、多くの子供たちが不幸な家庭に育っています。もしそういう子供たちが正しい愛情を得られなければ、大きくなっても両親を愛することができず、他人を愛することもできなくなってしまいます。これはとても悲しいことです。
 
そして子供が大きくなり、学校に行くようになれば、子供たちは心の支えを教師にも求めるようになります。そこで、もし教師が教科書を教えるだけでなく、生徒たちの将来のことを考え、その人生に対する責任を担ってやるならば、子供たちはその教師に対して信頼と尊敬を抱き、その教師から受けた教えは生涯心に刻み込まれることでしょう。それに反し、子供たちの生涯にわたる幸せに関心を払わない教師が教えたことは、一時的なものでしかなく、長く心にとどまることはありません。
 
同様に、人が病気になって入院し、あたたかい人間味溢れる医師に治療を受けることができれば、病人は安心し、最善の看護をしてあげたいという医師の思いは、その医師の技量に関係なく、その思い自体がすぐれた治療となるでしょう。他方で、医師が人間的感情に欠けていて、冷淡でいらいらした投げやりな態度を示すなら、たとえその医師が高く評価されていて、正しい診断を下し、適切な薬を処方していたとしても、病人は不安を感じてしまいます。そして、ひいては治療の内容や完全度に微妙な影響を与えることになってしまうかもしれません。
 
日常の会話でも、人が人間味溢れる話し方をしていれば、聴いていて快く、また気持ちよく反応することができます。どんな些細な話題であろうとも、会話全体が生き生きと興味深いものになるのです。その反面、乱暴な言葉で話す人に対しては、私たちは落ち着きを失い、早く打ち切って欲しいと感じることでしょう。どんなにつまらないことでも、重要な事柄であっても、他の人たちの好意や敬意は、私たちの幸せに欠かすことのできないものなのです。
 
最近会ったアメリカの科学者たちは、彼らの国の精神障害者の率が非常に高く、総人口の12%に上がると話していました。そして、鬱病の主な原因は、物質的に充足していないからではなく、他者からの愛情不足からなのだということがわかったそうです。
 
これまで私が述べてきたことからお分かりだと思いますが、ひとつはっきりといえることがあります。それは、私たちは生まれたその時から、それを自覚していようといなかろうと、誰かの愛情がなくては生きていけないという不可欠性が、私たちの血肉の中に刻み込まれているということです。たとえその愛情が、動物や普段自分が敵とみなしているような人から生まれてくるものであっても、子供も大人も自然にその愛情に心をひきつけられていきます。
 
愛を必要としない人は、ひとりとしていないと私は信じています。近代的思想の流れの中にはこういう傾向がありますが、人間を単に肉体的なものとして定義づけてはならないと言われており、これは明らかな事実だと思います。物質的な対象物がいかに美しい貴重なものであっても、それは、私たちを愛してはくれません。なぜなら、私たちの深い人間性や性格は、心という主観的本性に根ざしているからです。


思いやりを深める

私のある友人は、こう言いました。愛や同情は素晴らしいしよいことだが、それだけですべてに対処できるものだろうか。この世界はそういったものがさしたる影響も力も持てない場所なのではないか。怒りや憎しみがあまりに人間性の一部になり過ぎていて、人間は常にそういったネガティブな感情に支配されていくのではないだろうか、と。しかし、私はその考えには同意できません。

私たち人間は、現在の形態で約10万年間存在してきました。もしこの間に、人間が怒りや憎しみに本来的に支配されてきたのだとしたら、人類の人口は減少していたことでしょう。しかし、多くの戦争があったにも関わらず、世界の人口は昔よりずっと増えています。これこそ愛と思いやりが世界を左右してきた明確な証だと思います。だからこそ、いやな出来事は「ニュース」になるのであり、思いやりのあるよい行動はあまりに日常的なこととして当たり前に受け取られているので、ほとんど無視されてしまい、「ニュース」になることはないのです。

これまで、愛と思いやりがどれだけ精神的に有益なものかを強調してきましたが、愛と思いやりは身体的健康の面でも立派に寄与しています。私の個人的経験から述べても、精神的な安定と身体的健康は直接依存しあって存在しているのです。たとえば怒りや動揺は、人を病気にかかりやすくさせてしまいます。反面、心が安らぎ、物事に積極的に取り組んでいると、肉体もそう簡単には病気にかかったりしないものです。

しかし、私たちはみな、他者への愛を妨げるような、生来の自己中心的な態度を持っていることも確かです。私たち誰もが幸せを願い、その幸せは、心の平安や思いやりのある態度からのみ生まれるのであれば、どうやってその心を育てればよいのでしょうか。もちろん、思いやりは素晴らしいものだ、とただ思うだけでは不十分です。愛と思いやりを育むためには、それに必要な努力をしなくてはなりません。つまり、私たちの考えかたを愛と思いやりにあふれたものに変えていくために、日常生活における行ないの全てを利用する必要があるのです。

第一に、思いやりとは何を意味するのかが明確にわかっていなくてはなりません。様々な愛情の感覚には、欲望や執着が混在しています。例えば、両親の子供に対する愛情は、自分自身の感情の欲求と重なり合っていて、純粋な愛とはいえません。結婚においても然りで、夫婦の愛は、特に初期のころは互いの深い性格を十分に理解しておらず、真の愛よりも執着の方へと偏っています。いろいろな欠点のある相手であっても、好きだと思い込んでしまうととてもよい人に見えてしまうほど、私たちの渇愛は強いのです。それに加えて、私たちはわずかな長所を過大視する傾向があります。そこで、相手の態度が変わるとがっかりし、自分の態度も変わってしまいます。これは、その愛情が個人的な欲望に誘発されたものであり、相手のことを心から思っていない証拠なのです。

真の思いやりは、単なる情緒的な反応ではなく、理性に基づいたものです。それゆえ、たとえ嫌いな相手に対してであっても、真に思いやりのある態度というものは決して変わることがありません。

もちろん、こうした思いやりの心を育むことは容易ではありません。そこで、まず以下の事実について考えてみましょう。

人が美しく友好的であろうと、魅力に乏しく非友好的であろうと、基本的には私たちと同じひとりの人間です。私たち同様、他の人間も幸せを望み、苦しみを望んではいません。そして自分と全く同じように、苦しみを克服し、幸せになろうとする権利は誰にでも平等に与えられているのです。そこで、もしあなたが、すべての人たちが幸せになりたいと願い、幸せになる権利があるという点でみな平等であるということを認めるならば、あなたは自然に誰とでも気持ちを通じ合い、親しみを感じることができるでしょう。この普遍的な他者に対する思いやりの感覚に心がなじんでいくと、他者への責任感や、人々に手を差し伸べて、ともにいろいろな問題を解決しようという願望が深まっていきます。この願望は、特定な人だけを選ぶのではなく、全ての人たちに等しく適用できるものです。全ての人たちが、あなたと同じように愛と苦しみを経験している人間である限り、両者のあいだに差別の垣根を築き、相手がひどいことをしたからといって、その人に対する関わり方を変える理由はありません。

忍耐と時間さえあれば、この種の思いやりの心を育むことは、自分の力の範囲内でやり遂げられることだという点を強調したいと思います。もちろん、私たちの自己中心的な態度、自立的感情、自我に対する愛着は、本来的に哀れみの心を妨げる働きをしています。確かに真の思いやりは、このような形の自己への執着をなくした時に経験されるものですが、だからといって、努力して前進しようとしても無駄だ、ということは決してありません。


いかに出発するか?

私たちは、哀れみや思いやりの心を育むために、最大の障害となる怒りと憎しみを取り除くことから出発するべきです。私たち皆がよく知っているように、この二つの悪い心は非常に力の強い感情で、私たちの心全体を覆い尽くすほどです。にも関わらず、それらを制御することは可能です。しかし、もしそれができなければ、この破壊的な感情は私たちにつきまとい、私たちの愛と幸せを求める気持ちをくじくことになってしまうでしょう。

そこで最初に、怒りという感情に何らかの価値があるのかどうか、吟味してみる必要があります。何か困難な状況の中で気落ちしたときなど、往々にして怒りが力や自信、決意などをもたらしてくれるように思われ、役に立ちそうな気がすることがあるからです。

しかし、ここで私たちは、その時の精神状態をよく調べてみなくてはなりません。なるほど、怒りが特別な力を発揮するのは確かですが、その力の性質を注意深く観察すると、それが盲目的であることがわかります。怒りの結果が建設的なのか破滅的なのか、怒っているときの私たちにはわかっていないのです。これは、怒りの感情が私たちの脳の最高の部分である理性を暗くしてしまっているからです。ですから、怒りのエネルギーが信頼できるものではないことは確かです。それは、はかりしれない破壊と不幸を引き起こします。しかもその感情が極点に達すると、人は凶器となり、他人を傷つけるとともに自分をも破壊してしまいます。

しかし、同じように強力でありながら、困難な状況をずっと上手に処理することができる、制御された建設的なエネルギーを発展させることもできるのです。

この制御された建設的なエネルギーは、思いやりのある態度からだけでなく、理性と忍耐からも生まれます。これが、怒りに対する最強の解毒剤です。しかし残念なことに、多くの人が、この特質を弱さの現れと誤解しています。私は、実はその逆だと思います。それは、内面の力の真の現れなのです。哀れみの心は、本来温和で平和的で柔軟なものですが、非常に力強いものでもあります。すぐ忍耐を失う人は心がもろく、不安定なのです。だから私には、怒りの爆発は弱さの端的な表われだと思っています。

そこで、何か問題が起こったら、まず謙虚になり、誠意ある態度を保ち、結果が公正なものかどうかに注意するべきです。そのとき相手があなたより有利に立とうとして、公平であろうとするあなたの態度が相手の不当な攻撃を一層勇気づけてしまうようなら、断固として対処するべきです。しかし、それもあくまで思いやりの心を失わずに行なうべきであり、冷静に意見を述べて、反撃手段を講じる必要性があるとしても、それは怒りや悪意を伴わずに実行するべきです。

たとえ相手があなたを傷つけようとしても、最後にはその暴力的行為は彼ら自身を傷つけることになるのです。仕返しをしたいという衝動を抑えるためには、思いやりを身につけたいという願いを思い起こし、相手がした悪い行ないによって、苦しむことがないようにしてあげるという務めを自ら引き受けることです。

あなたが、穏やかな態度で対策を講じれば、より効果的で的を得た力強い手段となるでしょう。しかし、怒りという盲目の力に基づいた報復は、的はずれに終わることが多いのです。


友人と敵

思いやりや理性を高めるためには、ただ忍耐が大切だと考えているだけでは不十分です。これを再度強調しておきたいと思います。問題や困難が起きてきた時に、実際に忍耐の実践をしてみるべきなのです。

では、一体誰が忍耐を実践する機会を作ってくれるのでしょうか。もちろん、友人ではなく、敵が与えてくれるのです。敵こそ、面倒で嫌な状況をもたらしてくるのですから、本当に忍耐を学ぼうと思うなら、敵こそ最上の教師だと考えるべきなのです。

思いやりの心と愛を育もうとする人にとって、寛容さの修得は欠かせません。そのためにも、敵こそまたとない相手です。静謐な心を養うのに、一番役に立ってくれるのですから、私たちは敵に感謝してしかるべきでしょう。個人や社会生活の中でもよく起きることですが、状況の変化によって、昨日の敵が今日の友になることだってあるのです。

したがって、怒りと憎しみは「常に」有害なものなので、自分の心を鍛え、そのマイナスの力を弱めるように努めない限り、怒りと憎しみはいつまでも私たちを妨げ、静謐な心を養う努力をくじこうとするでしょう。怒りと憎しみこそ、私たちの本当の敵なのです。これこそ私たちが全面的に立ち向かい、克服すべき相手なのであり、人生に時として現れる一時的な「敵」は、真の敵ではありません。

もちろん私たち誰もが、友人を欲しがるのは当然です。もし本当に自己中心的になってみたいというのなら、徹底的に利他主義に徹してみるべきだ、と私はよく冗談で言っています。他人の面倒をよく見てやり、幸せを考えてあげ、手を貸し、世話を焼き、もっとたくさんの友人、たくさんの笑顔をこしらえてごらんなさい。その結果、どうなるでしょうか。あなたが助けを必要としたとき、大勢の友人が助けに来てくれることでしょう。その反対に、他人の幸せを無視していれば、長い目で見れば、人に嫌われてあなたは敗者になってしまいます。それに、友情は、いさかい、怒り、嫉妬、激しい競争心から生まれるでしょうか。私は、そうは思いません。愛情だけが、真に親しい友を作り出してくれるのです。

今日の物質的社会では、お金と権力があればたくさんの友人ができると思うかもしれません。しかし、その人たちは、実はあなたの友人ではなく、あなたのお金と権力の友人なのです。あなたが、富と力を失ったとき、その人たちの姿は跡形もなく消えてしまいます。

問題なのは、物事がうまくいっている時です。私たちは、何でも自分でできるという自信を持ち、友人など要らないとまで思ってしまいます。しかし、いったん地位を失い、健康を害した時、いかにそれが間違っていたかに気づくはずです。そんな時こそ、誰が本当に助けてくれるのか、そのような事態を考えるなら、助けを必要とする時に頼れる本当の友人を作っておくためにも、私たちは利他の気持ちと愛情を培っていかなければなりません。

私がこう言うと、時々人は笑いますが、私自身もっと友人が欲しいのです。私は笑顔が大好きです。そのために、どうやってもっとたくさんの友人を作り、どうやってもっと多くの笑顔、それも本当の笑顔を見つければよいのかと頭を悩ませているのです。笑顔にも、幾つかもの種類があります。皮肉な笑顔、技巧的な笑顔、外交辞令的笑顔などです。多くの笑顔は、本当の満足感を与えるどころか、時として疑惑や恐怖さえ呼び起こすこともあります。それに対して、心からの笑顔は、とても新鮮な幸福感を与えてくれます。そしてこれは、人間独特のものではないかと思うのです。もし、そういう笑顔を求めるのであれば、私たち自身の中にそういう笑顔を生み出す要因を持たなくてはなりません。


思いやりと世界

おしまいに、この小冊子の主題を超えて、もっと論点を広げて私の考えを少し述べてみたいと思います。個人個人の幸せは、私たちの共同体の改善にも大きな貢献をなし得ると思うからです。

私たちはみな、愛情に対する普遍的な必要性を分かち合っているのですから、どんな状態であっても、出会った人々を兄弟姉妹だと感じることが可能です。顔がどんなに見慣れないものであろうと、着ている衣装や動作がどう異なっていようと、私たちと他の人たちの間に大した違いはありません。私たちの根源的本性は同じなのに、外見上の違いにこだわるのはばかげたことです。

究極的に、人類はひとつであり、この地球だけが私たちの住処なのです。自分たちの家を守らねばならぬとしたら、私たち各人が普遍的な他者への思いやりとを持ち、その生き生きとした感覚を味わおうではありませんか。この感覚こそが、人を欺き、虐待しようとする自己中心的な衝動を取り除いてくれるのです。もしあなたが誠実で寛容な心を持っていれば、自分自身に自信と誇りを持つことができるので、他人を恐れる必要はないはずです。

家族、民族、国家、国際社会、それがどんなレベルの社会であろうと、より幸せでよりよい世界を作る鍵は、愛と思いやりの心を深めていくことだと私は信じています。私たちは、宗教に凝り固まったり、あるイデオロギーの信奉者になったりする必要はありません。何よりも一番大切なことは、私たちひとりひとりがよき人間となり、心によき資質を培っていくことなのです。

私は誰と会う時でも、古い友人として心から迎えるようにしています。こうすることが、私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。


ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ

 

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